Instagramのせいで、「有名なインスタ映えポイント、絶景ポイントで右へ倣えな写真を撮る事」が目的になってしまっている写真好きが増えたと思いませんか?
#ファインダー越しの私の世界
が大嫌いです。
私の世界などではなく、殆どが
#ファインダー越しの借り物画角
#ファインダー越しの本歌取
であって、自分の世界を写真で表現出来る人はなどは、極一部の超上級者だけだと思っています。もちろん私も写真で自分の世界を表現など出来はしません。自分が素敵だと思う被写体にカメラを向けて自己満足に浸っているだけです。
大田黒公園(杉並区)NikonDf × YONGNUO YN50mm F1.8N
「ネット上で話題のスポットに出向いて写真を撮る事」がルーティンになってしまってる人があまりに増えてしまいました。
「本歌取(ほんかとり)」は結構柔らかい表現で、本音は「パクり」と書きたいところです。
春になれば有名な花見スポットの有名なアングルからの写真がネットに溢れ、祇園祭が始まれば山車の写真だらけになります。
プロの撮る「動」を感じる祭りの写真ではなく、ただの山車の写真が大量に投稿されるだけです。
紅葉時期になると、撮り鉄さん以外まで只見線の第一只見川橋梁に押し寄せ、同じ位置からステレオタイプな写真を撮ってはネットに投稿する始末。
例を挙げれば、きりがないほど有名スポットからの同一画角の画像だらけ
写真がメモリーでも、表現でもなく、ただの流行りの追いかけっこになってしまっています。
それもこれも、写真が失敗しない趣味になったことによる、悪しき副産物と言えるのではないでしょうか?
正直、絶景はスマホで撮っても絶景です。
知床や尾瀬などに行けば、どんな向きにカメラを向けても絶景しか撮れないと言っても過言ではありません。
屋久島の森の中に入れば、他の土地なら御神木レベルの巨木と苔の世界が広がります。デジタルカメラなら露出アンダーで真っ黒なんて事もありません。
確かに、香川の父母ヶ浜のように観光誘致などに「インスタ映え」を利用して大成功した例も少なくないので、各自治体や商工会などが「何十匹目かのどじょう」を狙って仕掛ける事は理解出来ますが、雨後の筍のように同じ場所から撮られた代わり映えしない大量の画像群を見せさせられる側は、たまったものではありません。
私事ですが、いつか行きたいと長年思っていた場所ですら、似たような画像の大量投稿の影響で、うんざりして行くのを辞めてしまった…そんな場所すらも沢山あります。
同じような写真でも、最高の瞬間を求めて足繁く通い、天候や光などが計算し尽くされた渾身の一枚であるなら、こんな感情は湧きません。
有名スポットに出向いて、短時間の滞在でカメラ任せでパシャパシャ撮っただけの、何の深みも無い画像であるから飽きるのです。その手の人達は「行った記念」とばかりに何度も何度も似たような写真を何回も投稿します。
本当に表現としての写真ではなく、マシンガン撮影の記録を見せられている気分です。
ハモニカ横丁(武蔵野市)NikonDf × YONGNUO YN50mm F1.8N
正直、その辺で撮った日常の慌しさで見過ごしてしまってるようなモノを見せられる方がグッとくる事が多いです。
その手の写真でもモノクロ写真にされると、カラーの世界で生きている私達には、すべての物が見た事のないモノにされてしまうので、ちょっとズルいなぁと感じてしまいますが。
私と同じように、絶景の押し売りに飽き飽きしているような、そういう感覚の人って潜在的に多い気はするのですが、違うんでしょうかね?