独眼流正宗

独眼レフを操る 下手っぴ写真愛好家の場末の毒舌ブログです。「頭の中に漠然とある感覚や印象を、気分や感情に左右される事なく、言葉や文字に置き換える時に、それらは初めて明確な意思や思考になる。」そのための自己反芻のようなモノでもあるので、興味のない方はスルーして下さい。

至高の一台を答えよというなら、オールドレンズ使い放題のNikon Df でよいのではないか?

人それぞれ考え方が違う「ベストな1台」ですが、私がDf 購入に至った最大の理由は「あらゆるカメラが貰えるとして、一番自分が楽しいと思えるカメラは何か?」と自問自答した結果だったので、私の中ではDf こそ至高の一台と呼べると考えています。

 

Df を選択した一番の理由は、子供の頃(銀塩の頃)に使いきれなかったオールドニッコールの真価を楽しみたいと思ったからです。

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日本光学のMade in Japanレンズは、当時LEICAに並び称される程のクオリティで語られていました。

当時は「プロはNikon」が当たり前の時代。身の周りにある、本やポスター、広告などあらゆる写真がNikonのレンズで撮られていた時代とも言えます。

 

 

当時、街のカメラ屋さんはカメラマニアの集いの場でもありました。私の親族の経営していたカメラ屋もご多分に漏れず、平日は現像の受け渡しと、常連客がカメラ談議をするための集会場所のような役割でした。

親の都合で夏休みなどに長期間帰省させられると、知り合いも居ない、やる事の無い私は文字通りカメラ屋さんに入り浸っていました。そして、常連客のおじさん達と顔馴染みになると、引き伸ばした自分が撮影した写真を見せてくれるたりするようになるのですが、そのクオリティたるや!

父親が購入して、半ば放置されていたNikonF2とレンズを借りて、なけなしのお小遣いをフィルムに注ぎ込んで撮っていましたが、全く同じセットでどうしてこんなに違うのか理解も出来ませんでした。

 

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時は流れて、私が自分のお金で一眼レフを買えるようになった時には、既にAF全盛の時代。手元のマニュアルレンズの出番は無く、AFを愉しむ事に投資したり、PENTAXに浮気をしたりしながらカメラ趣味を続けて来ました。

 

しかし、記憶の片隅には「使い熟せなかったオールドニッコール」の存在と「それで撮られた当時の凄い写真達」が常に存在しているような、そんなもやもやとした感覚がありました。

 

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現行のデジタルカメラで、半世紀前のレンズをそのまま使えるのはNikon Df だけです。

つまり、以前のブログに書いたようにTTL自動測光普及時にマウントを唯一変更しなかったNikonの、不滅のFマウントがDf なら使い放題というわけです。

 

結果、私はDf にこの上なく満足しています。

そして同時に、小学生の時からの長い長い時間を超越して、恐るべしNikkor-S Auto 50mm F1.4の描写力を実感する事にもなるのです。

 

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Nikon Df + Nikkor-S Auto 50mm F1.4

 

曇天の冬の朝の通勤時間帯に、人が一瞬まばらになったタイミングで、大急ぎで手持ち撮影した高尾駅の駅舎です。

特に追い込んだわけではなく、正味15秒にも満たない撮影時間でしたが、オールドニッコール駅の窓にかかる簾までしっかりと描写していてビックリしました。

 

現代の鉛が含有していないガラスレンズプラスチック製のレンズの持つ解像力とは、ひと味違った解像力。空気感というか、奥行き感というか、全体にしっとりとした印象です。カールツァイスの高級単焦点レンズ空気まで写すと形容されるのに近い感覚だと思います。

 

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Nikon Df + Nikkor-S Auto 50mm F1.4

これも写活仲間が喫煙スペースに赴いた時に、テストを兼ねて咄嗟に撮った一枚です。カップやスプーンの質感、色味。そして自然極まるボケ方。

まるで肉眼でカップを注視している時の「視界に入ってはいるけど、脳が見ていない時の見え方」を写し取ったかのようです。

 

 

 

銀塩時代には、私の技術や経験則では知り得なかったオールドニッコールレンズの潜在力を知るための長い長い旅路。

今、私は心ゆくまでオールドニッコールとの時間を愉しんでいます。

 

私にとってDf とオールドニッコールで写真を撮るということは、言ってみれば「子供の頃にやり残した夏休みの宿題」のようなものなのかもしれません。