独眼流正宗

独眼レフを操る 下手っぴ写真愛好家の場末の毒舌ブログです。「頭の中に漠然とある感覚や印象を、気分や感情に左右される事なく、言葉や文字に置き換える時に、それらは初めて明確な意思や思考になる。」そのための自己反芻のようなモノでもあるので、興味のない方はスルーして下さい。

被写体に対する変化について 前編

2年前の今頃、筆者は花なんてまるで興味のない人間でした。

もちろん桜並木や群生地に行けば「おおっ」となりはすれど、被写体としてなど一切考えていなかったのです。カメラを持ち合わせてればメモリーのような感覚で一応撮るという程度。

道端に咲く、誰もが知ってる花の名前すら知らない…そんな無感動な人間だったと思います。

 

しかし、ある人との出会いで、全てが変わったのでした。

その人の事は「花博士」などとふざけて呼んでいた程、花に詳しい人でした。

なによりもヌードしか撮っていなかった筆者の、初めての写真仲間だったのです。

 

ブログの最初の方に書いたように、筆者は写真を嗜むには恵まれた環境で育ったと思います。知識とか機材に恵まれ過ぎて、写真に取り組む姿勢が欠如していました。

 

花博士との出会いで筆者は初めて花を撮影する事を目的に仲間と遠出したのです。

 

その頃の筆者と言えば、運ぶのが面倒だとカメラは撮影場所に置きっ放し。必要な時はNikon1という1インチセンサーのミラーレスで適当に撮っているような状態でした。

 

初めての花の撮影は…楽しいの一言でした。

 

花博士とはそれ以降も、他の活動と並行しなが季節の花を撮りに行ったりしました。

筆者は花に興味を持ち、花しらべという花の名前を特定するアプリを購入。置きっ放しの一眼レフも手元に戻し、道端の花に注視するようにさえなったのです。

 

世界が一変しました。

 

何気ない道端に四季の移ろいを感じ、騒音とすら考えていた鳥の鳴き声に癒される。驚きました。こんな日常が筆者に訪れるなどという事は、まったく考えていなかったのですから。

 

そのような心境の変化は、それまでの価値観や人生観すらも一変させてしまいます。

 

無感動で飼い猫だけを溺愛していたような人生を送っていた男が、道端の雑草に心踊るようになるわけですから、これは変化というレベルではなく、正に変態(metamorphosis)です。

 

蛹から成虫になるかのように、モノの見方、見え方が丸っきり変わってしまいました。

 

 

実は、私の叔父もそうでした。

 

田舎の街で暮らす叔父は還暦を前に、祖父の遺産で左ハンドルの車を購入します。

いい車に乗りたいという純粋な欲求。しかし停車するたびに左ハンドルの車は道端がよく見えます。いつしか叔父は、いい車に乗りたいではなく道端の名もない草花への興味から左ハンドルの車を乗り継ぎ、カメラを持ち歩くようになりました。

 

その変化を筆者はは「へぇぇ」という感じで笑って眺めていましたが、まさか自分にも同じことが起きるとは夢にも思ってもいませんでした。

歳とった…と言えばそれまでですが、感動や自然の恵みに感謝する日々は、とても有意義な事に思います。

 

 

つづく

 

 

 

 

f:id:muramasachang:20210318175510j:image
f:id:muramasachang:20210318175500j:image
f:id:muramasachang:20210318175504j:image
f:id:muramasachang:20210318175515j:image
f:id:muramasachang:20210318175446j:image
f:id:muramasachang:20210318175436j:image
f:id:muramasachang:20210318175425j:imagef:id:muramasachang:20210318180125j:image
f:id:muramasachang:20210318180201j:image
f:id:muramasachang:20210318180142j:image

 

写真は花を撮り始めてから半年くらいまでのもの。機材、レンズはランダムです。