五反田
五反田はゆうぽうとなどでコンサートが頻繁に開催されていたので、馴染みのある街です。久々に行ってみると東五反田周辺の猥雑さが影をひそめ、ゆうぽうとの跡地にはJPの新しい複合施設ビルであるOMO5東京五反田が建っていました。
OMO5は後日再訪する事にして筆者のイメージするガチャガチャした五反田を撮ってみました。
なんとなく門構えと玄関が立派な花街だった街ならではの家を見ると撮ってしまいます。門の中に稲荷がある所を見ると置屋かなんかだったのでしょうか?趣と歴史を感じさせる素敵な建物です。
大崎
今回、一番困ったのがこの大崎。再開発で殺風景なオフィス街になってしまいました。以前はオフィスではなく明電舎とSONYの工場が駅の真ん前にあり、ゲートシティの辺りもいくつか工場があったりで、もっと人々の生活の息吹が感じられたのですが、なんとも無機質な街になってしまいました。大崎だけは、あまりに居心地が悪いので散策せずに駅前だけで退散してしまいました。
品川はこのブログで何度も訪れているので、割愛して隣の新駅に向かいます。
高輪ゲートウェイ
全天候型のガードを備えた新しいタイプの駅。山手線の殆どの駅がゲリラ豪雨などが降るとホームに居られないような屋根しか持たない古い駅なので、この明るく開放感溢れるお洒落な駅舎は異質と言えます。
折角なので久々に泉岳寺を訪れてみました。
雨のせいか外国人観光客が多かったです。四十七士などという御伽噺(史実はもっとリアルでドロドロしているため)は日本人的な感覚での人情話だと思っていたので、少し意外でした。
赤穂浪士の伝承を筆者が「御伽噺」と言うのは理由があります。
大石内蔵助の辞世の句と言われているのが「覚悟した ほどには濡れぬ 時雨かな」。泉岳寺は米沢藩の、中屋敷、下屋敷の近くで赤穂の浪人達はまだまだ戦争する気満々だった筈なのです。所謂、四十七士はただの「主君の仇撃ちを直接する名誉」として最初に動いた部隊であって、退っ引きならない事情があった者以外、殆ど離脱者は居なかった筈であると筆者は推測しています。
「上杉の人間を根絶やしにする」
それが武家の喧嘩であり、武士のしきたりなのですから。
義絶されたり、不通になったとされるのは現代で言えばアリバイ工作の一貫や、お取調べでの仲間を守るための詭弁だったのではないか?と思っています。
泉岳寺はその最前線基地になる場所で、恐らく闇で仕入れた武器なども予め大量に備えていた筈です。ただ、その売られた喧嘩を米沢藩はお上に泣きついて買わなかった。この米沢藩が逃げた日こそ、武士の時代が終わったのだと思います。
武家の喧嘩は本来厳しくお咎めがあり、名誉刑である切腹など許されない筈ですが、喧嘩を売ったのに買われなかった赤穂の浪人達を不憫に思った末の配慮だったように思います。
赤穂事件は直後から、芝居や浄瑠璃などで、四十七士は人気演目になったそうで、現代に伝わるのは、史実が大幅に脚色された御伽噺の類いだと筆者は考えています。
田町
かつてJULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦の入口になっていた立体駐車場。そのまま入口の飾りが残っていました。ここにレッドカーペットが敷かれていて隣のビルへのアプローチになってました。元々は倉庫スペースだったのでちゃんとした入口が無く、隣の立体駐車場の一部を入口として使うという荒技に。その後のテナントもここを出入り口にしているようで、まだ面影が残ってて懐かしく思いました。
田町か浜松町か微妙ですが、かつての「芝浦見番」です。数年前にリフォームが入っていたので、どこかの企業に買われて台無しにされたか?と思っていましたが、港区が買い上げて「伝統文化交流館」として生まれ変わりました!開放されてますので誰でも見学可能です。
耐震などの補強をしているだけでなく、なんか少し場所がズレたような気がしたので、スタッフの方に聞いてみたら曳屋で土台をやり直したので数メートル横に移動したとの事でした。
絢爛豪華な別荘とかではなく、見番なので決して豪華な作りではありません。部材も安普請だったりですが、それでも現代建築と比べると遥かに丁寧に作られています。
いるだけで落ち着く和の空間です。喫茶室もあって、お安く喉を潤す事ができました。
2階の広間は、舞台と併せて百畳以上ある柱の無いスペース!昭和初期の木造建築ですが、改めて当時の建築技術の高さを目の当たりにしました!14時までなら、ここのスペースで喫茶コーナーで買い求めたものが飲めるそうです。
其の参につづく