独眼流正宗

独眼レフを操る 下手っぴ写真愛好家の場末の毒舌ブログです。「頭の中に漠然とある感覚や印象を、気分や感情に左右される事なく、言葉や文字に置き換える時に、それらは初めて明確な意思や思考になる。」そのための自己反芻のようなモノでもあるので、興味のない方はスルーして下さい。

Nikon Df が誘うオールドニッコールの官能的世界

Nikon Df の一番の利点は、Made in Japanのオールドニッコールレンズをそのまま使える事です。今でこそ、中古取扱店で5000円くらいから売られているレンズもありますが、発売当時はいずれも宝飾品と同じレベルの超高級品として売られていたレンズ達です。

f:id:muramasachang:20200207113638j:image

しかし、オールドレンズは誤解されている部分があるようです。

 

SNS等で#オールドレンズのタグで検索すると、完全に白飛びしている露出オーバーでピントの甘い写真を「作品」として堂々と載せている方がものすごく多いのです。

そしてそれが「味」や「やわらかい」と表現されて、大勢のフォロワーに支持されていたりします。

デジタル一眼レフやミラーレスで写真を始めた方は、シャッター速度を含めた露出をオートでカメラ任せにしてる方が多いのだと思います。

当然ながら、非AIレンズは自動制御の為の情報伝達をレンズとカメラの間でやり取りすることはありません。

AF、手振れ補正付きのAIレンズなら、絞り優先モードで開放で撮ってもカメラが露出オーバーにならないよう自動制御してくれますが、非AIレンズは制御してくれる筈の露出オーバーを、オーバーのままイメージセンサは読み取ります。そして現代のコーティングされたレンズとは比較にならないほど逆光に弱いレンズなので簡単にフレアが画面を覆います。

 

恐らく、そういった画像を作品として投稿されている方々は、F値は被写界深度以外をボケさせるための機能と勘違いしているのではないしょうか。

 

あの…はっきり言わせてもらえば、ピン甘、露出オーバーの写真なら現代のレンズでもマニュアルモードで白飛びさせれば幾らでも撮れますので。笑

そんなのはフィルム時代の、ただの「写真が下手な人」が撮った失敗写真です。

そのような写真を、旅の記録としてお父さんが撮ろうものなら、家族からは「旅の楽しい思い出を壊した戦犯扱い」で批難轟々だったものです。

 

 

写ルンです」レベルの、発色が悪く、露出をミスってモヤッとしてるだけの写真がSNSなどで味があると人気になり、セミプロ扱いの人もいるようですが、個人的には信じられないような低レベルの話です。

 

孤高の写真家、服部冬樹氏のように、ダゲレオタイプのような昔の技法に徹底的に拘って、特殊な印画紙や技術を用いて創造されている写真なら、その画質の荒れすらも拘りの表現の範囲です。

しかし、今ネットで「味」だの「やわらかい」だの言われ評価されている写真は、今のように撮れ高が即確認出来なかったフィルム時代に、下手な人が撮った写真にしか見えません。

 

Fuyuki Hattori - Wikipedia

 

 

キツい言い方になりますが、レンズのせいではなく、単に写真は過保護なカメラに撮らせて貰ってるような人が、甘やかしてくれないレンズを曖昧な設定で使って撮れた失敗写真を、古いレンズの味だと勘違いしているだけです。

そして、それを物を知らない人達がありがたがって評価している。

しかし、それらのレンズが作られた当時から、プロの撮る商業写真は常にカリカだったのです!

大事な時に、カリカリ、適正露出で撮れなくてプロを断念せざるを得なかった人がどれだけいた事か。

 

適切なセッティングで撮れば、オールドレンズだって現代のレンズと区別つかないほどの解像力と描写性能があるんです!

 

f:id:muramasachang:20200207120815j:image

Nikon Df + Nikkor-S Auto 50mm F1.4(手持ち撮影)

 

露出オーバーを「味」だと思って撮っている方は一度、その設定のまま露出補正をマイナス側にして撮ってみて下さい。そして現代の手振れ補正付きレンズの時は、手振れオフ、AFもオフにしてカメラも全てマニュアルで撮ってみて下さい。設定が近ければ同じような写真が撮れる筈です。

 

そしてお願いがあります!

 

光学技術は世界に誇る、日本の物づくりの際たるものでした。

露出オーバーを表現と言うのは自由ですが、あなた方の間違った使い方で、戦後の日本の発展の原点とも言うべき光学技術の結晶を、あたかも粗悪品か不良品のように喧伝し、誤解させるのだけは辞めて下さい!

 

 

 

f:id:muramasachang:20200207113750j:image

オールドレンズの真価は、MADE IN JAPAN の質の高さと、ガラスレンズによる発色の深み、作像の立体感や質感といった部分に特化していると思います。

現在販売されている、コシナCarl Zeissの高級単焦点レンズなどは、まさにオールドレンズの直系で、現代の設計と技術でオールドレンズ的なアプローチのまま現代のレンズを作っていると言えるのではないかと思います。

 

口径が小さくコーティングなども現代とは違うので逆光に弱い部分はありますが、それでもキレのある描写力はオールドレンズの魅力でもあります。

 

 

今後、少しずつ手持ちのレンズから、幾つか作例的なものを紹介していこうと思っています。

 

 

 

 

 

 

至高の一台を答えよというなら、オールドレンズ使い放題のNikon Df でよいのではないか?

人それぞれ考え方が違う「ベストな1台」ですが、私がDf 購入に至った最大の理由は「あらゆるカメラが貰えるとして、一番自分が楽しいと思えるカメラは何か?」と自問自答した結果だったので、私の中ではDf こそ至高の一台と呼べると考えています。

 

Df を選択した一番の理由は、子供の頃(銀塩の頃)に使いきれなかったオールドニッコールの真価を楽しみたいと思ったからです。

f:id:muramasachang:20200128053122j:image

日本光学のMade in Japanレンズは、当時LEICAに並び称される程のクオリティで語られていました。

当時は「プロはNikon」が当たり前の時代。身の周りにある、本やポスター、広告などあらゆる写真がNikonのレンズで撮られていた時代とも言えます。

 

 

当時、街のカメラ屋さんはカメラマニアの集いの場でもありました。私の親族の経営していたカメラ屋もご多分に漏れず、平日は現像の受け渡しと、常連客がカメラ談議をするための集会場所のような役割でした。

親の都合で夏休みなどに長期間帰省させられると、知り合いも居ない、やる事の無い私は文字通りカメラ屋さんに入り浸っていました。そして、常連客のおじさん達と顔馴染みになると、引き伸ばした自分が撮影した写真を見せてくれるたりするようになるのですが、そのクオリティたるや!

父親が購入して、半ば放置されていたNikonF2とレンズを借りて、なけなしのお小遣いをフィルムに注ぎ込んで撮っていましたが、全く同じセットでどうしてこんなに違うのか理解も出来ませんでした。

 

f:id:muramasachang:20200128080807j:image

時は流れて、私が自分のお金で一眼レフを買えるようになった時には、既にAF全盛の時代。手元のマニュアルレンズの出番は無く、AFを愉しむ事に投資したり、PENTAXに浮気をしたりしながらカメラ趣味を続けて来ました。

 

しかし、記憶の片隅には「使い熟せなかったオールドニッコール」の存在と「それで撮られた当時の凄い写真達」が常に存在しているような、そんなもやもやとした感覚がありました。

 

f:id:muramasachang:20200128224032j:image

現行のデジタルカメラで、半世紀前のレンズをそのまま使えるのはNikon Df だけです。

つまり、以前のブログに書いたようにTTL自動測光普及時にマウントを唯一変更しなかったNikonの、不滅のFマウントがDf なら使い放題というわけです。

 

結果、私はDf にこの上なく満足しています。

そして同時に、小学生の時からの長い長い時間を超越して、恐るべしNikkor-S Auto 50mm F1.4の描写力を実感する事にもなるのです。

 

f:id:muramasachang:20200128052440j:image

Nikon Df + Nikkor-S Auto 50mm F1.4

 

曇天の冬の朝の通勤時間帯に、人が一瞬まばらになったタイミングで、大急ぎで手持ち撮影した高尾駅の駅舎です。

特に追い込んだわけではなく、正味15秒にも満たない撮影時間でしたが、オールドニッコール駅の窓にかかる簾までしっかりと描写していてビックリしました。

 

現代の鉛が含有していないガラスレンズプラスチック製のレンズの持つ解像力とは、ひと味違った解像力。空気感というか、奥行き感というか、全体にしっとりとした印象です。カールツァイスの高級単焦点レンズ空気まで写すと形容されるのに近い感覚だと思います。

 

f:id:muramasachang:20200128072446j:image

Nikon Df + Nikkor-S Auto 50mm F1.4

これも写活仲間が喫煙スペースに赴いた時に、テストを兼ねて咄嗟に撮った一枚です。カップやスプーンの質感、色味。そして自然極まるボケ方。

まるで肉眼でカップを注視している時の「視界に入ってはいるけど、脳が見ていない時の見え方」を写し取ったかのようです。

 

 

 

銀塩時代には、私の技術や経験則では知り得なかったオールドニッコールレンズの潜在力を知るための長い長い旅路。

今、私は心ゆくまでオールドニッコールとの時間を愉しんでいます。

 

私にとってDf とオールドニッコールで写真を撮るということは、言ってみれば「子供の頃にやり残した夏休みの宿題」のようなものなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Nikon Df を1ヶ月半使ってみて

APS-CD7000からフルサイズのDf に替えて1ヶ月半。

 

購入まで、文字通り熟考に熟考を重ねただけあって特に不満点はないです。

これだけ中古市場にDf が存在するというのは、買ったけど売り払った人がそれなりに居ると言うことでもあります。そういった意味では、ネガティブな情報もしっかりと頭に入れてはありましたので、発売当初、見た目に惹かれて飛びついた人より不満に思う要素は少なかった筈です。

 

f:id:muramasachang:20200123033036j:image

個人的にDf は他に代用の効かぬ名機だと思っています。購入を未だに検討されてる方も多いと思うので、特にネット上で見られるネガティブな意見に対する個人的な見解を書いてみようと思います。

 

ホールド感の悪さ

f:id:muramasachang:20200123032810j:image

右前部のグリップの張り出しが弱く、ホールド感が悪いと言うのが最も多かった悪評ですが、私はそもそも右手でカメラを持ちません。

現代のような人間工学的な流線型になる前にカメラ趣味をスタートしているので、左手の掌の手首部分にカメラの重心(概ねボディ下部とレンズのマウント付近)に置いてピントリングを回し、シャッターを押す瞬間まで「右手は添えるだけ」の事が多いのです。

それと利き目が左なので、左目でファインダーを覗いているのでカメラは顔に密着するので右手のホールド感という事を考えた事がありません。

もちろん、当時は手ぶれ補正どころかAFも無い時代だったので、超ヘビー級レンズを手持ちでなど考えもしなかったですから、AFや手ぶれ補正が当たり前でグリップの良い右手メインでカメラを保持してる方々とは、カメラの構え方が全く違うのだと思いますが。

寧ろ「ホールド感」と言われると、カメラの大きさの方が気になります。ファインダーレスのミラーレス機はどう持っても小さ過ぎてホールド出来なくて困りました。

 

サブコマンドダイヤルの回しにくさ

f:id:muramasachang:20200123032848j:image

これは買う前に最も懸念していたポイントでした。

確かに回しにくい感じはあります。前述のように右手のホールド感の悪さを訴えている方々には、かなり扱い辛いのではないかと思います。私は幸い、右手が割と自由なので思っていた程には回し難くはなかったです。

しかし、やはりメインコマンドダイヤルと同じ垂直軸のダイヤルの方が使い勝手は良かったのは明らかです。デザイン的な物なのか、内部のパーツ配置上の事なのかはわかりませんが、設計の意図がわからない部分ではあります。

 

電源のON/OFFがしにくい

Df は電源のロータリースイッチに突起がなくON/OFF がしづらいという意見が結構ありました。

正直、突起があるために入れ物の中で電源が勝手に入ってしまい電池消耗する事の方が、私にとってはネガティブファクターなので、何とも感じません。

「指1本でON/OFF の操作ができない事が何故そんなにマイナスなのか?」

寧ろ、そこが理解出来ません。

出先でバッグから取り出したカメラの電源が入っていて電池が消耗していた時の無念さの方が遥かに大きい。

それに、せっかくDf のような外観のカメラを持ったのだから、速写や撮りまくる事に拘らず、フィルム時代にあったようなシャッター1押しの重さを感じながら撮る事も大切だと思っています。

 

ISO感度が12800しかない

これをデメリットに挙げている人達は、いったい何を撮ろうとしている人達なのだろう?と、不思議に思っています。

デジタルカメラからカメラを始めた人には感度調整は当たり前のものかもしれないですが、フィルム時代からカメラをやっていた者には、ISO3200の時点で「神の領域」であると言っても過言ではないです。笑

今迄のデジタルカメラ全ての撮影で6400以上に上げた事がない。それも出先で三脚が無く苦肉の策といった感じで使っただけで、絞り優先モードで撮っている時などは、殆どISO感度の設定ができること自体を忘れていることの方が多いです。

シャッター優先モードで、飛んでいる鳥や虫などの動体を撮る時に思い出したように上げる事があるだけの私には、12800しかないという感覚がないのです。

逆に、デメリットに挙げる人達がこれだけ居るわけですが「12800では撮れない被写体」って何なのでしょうか?

写真は光を捉える作業なので、捉えられない光は撮らないで写真活動をしてきたので、ISO12800が不満要素である意味が全く想像が出来ません。

 

SDカードのスロットとバッテリーが同じ場所

正直、これも何をもってマイナスポイントに挙げられているかもわからない。特に困ることはないです。寧ろ、バッテリーチェックとカードの入れ忘れを一度にチェックできるメリットの方が個人的には大きいと感じています。

またSDカードのスロットがひとつだという点をデメリットとして指摘している人も見受けられますが、これも特に不便はありません。

そもそも64GBのカードならRAWで1000枚以上撮影可能なので、動画機能を予め省いた写真専用機に複数のスロットを欲しいと思った事が無いです。

用途によってカードを使い分けているなら入れ替えれば良いという考えしかないし、カメラ内で十字キーを駆使して面倒なカード間でデータの移動とかも全く考えていない者の意見ではありますが、Df というカメラの指向性や嗜好性を考えたらデメリットに挙がる要素では無いと考えます。

 

以上、ネット上によく書かれているNikon Df に対する不満点への個人的な見解を述べてみました。

正直、不満点はないです。

不満点を挙げないと公平なレポートにならないとばかりに、重箱の隅をつつくように、誰も納得しないような不満点を並べても意味が無いので、不満点は無しとしておきます。

 

ただし、Df に不満点ではありませんが、銀塩時代を知る者としては、全てのデジタル一眼レフおいてファインダーの明るさや像の大きさに不満は持っているのは確かです。

 

これは今回、マグニファイングアイピースを購入して像の見え方だけは、少し改善されました。初めて使ってみましたが買って正解でした。

Nikon マグニファイングアイピース DK-17M

Nikon マグニファイングアイピース DK-17M

  • 発売日: 2005/04/27
  • メディア: エレクトロニクス
 

 

それに、以前に記事にしたデジタルならではのピント合わせ術もあるので、ファインダーがデジタルカメラの弱点とも言い切れないところもありますが。

三脚を使ってMFで追い込む撮影(初心者向け) - 独眼流正宗

 

何にしてもNikon Df は唯一無二。

質の良いオールドレンズが使い放題の事を考えれば、これに優る利点は無いのではないか?と、個人的に思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

RAW現像は何が正しいか?

皆さんRAW現像はされてますか?

カメラを始めたばかりの方で「RAW+JPEG」で撮っておきながら、面倒くさいからとJPEGの画像だけをスマホに転送して眺めている人、居るのではありませんか?だとしたら、とてももったいないと思います。

RAWとは英語の生という意味のRAWです。まだJPEGなどの規格に置き換えてないデータと考えて下さい。

つまりJPEGなどの規格に合わせて既に作ってしまった画像をレタッチするより、RAWデータをJPEGに変換する時に調整する方が自由度が高く、ナチュラルな仕上がりにできる。これがRAW現像です。

 

APS-Cのカメラで撮った写真でJPEG撮って出しとRAW現像したモノを載せてみます。

f:id:muramasachang:20200101225926j:image

JPEG撮って出し

 

f:id:muramasachang:20200101225039j:image

RAW現像

 

RAW現像はとても暑く、陽射しが強かった、この日のイメージに合わせて調節しています。

JPEG撮って出し画像だけを、見ると特に不満はないのですが、RAW現像した画像と見比べてしまうと、ただの明るい画像な感じがしてしまいます。

 

また、JPEG画像をレタッチしてみました。細かく調整して芝生周辺をRAW現像の感じに合わせてみたのですが、空が燻んでいかにも弄った画像っぽくなってしまいました。

f:id:muramasachang:20200116030502j:image

JPEGレタッチ

 

最近はカメラ本体の液晶も高精度になったのでパソコンなどに取り込んで専用ソフトで現像しなくても、そこそこしっかりと弄れるようになったと思います。

 

では、RAW現像はどのように画像を仕上げていくのが良いのでしょうか?

 

正解は人それぞれだと思うのです。

私は個人的には、見たままの色や雰囲気に寄せる作業としてRAW現像をしていますが、必ずしもそれが正しくて、皆がそうすべきとは思っていません。

 

モノクロにしたり、被写体をしっかり見せるために発色を調整したり、場合によってはビネットコントロールで画面の四隅を暗くして中央部に視線が行くようにしたりも「正解」なのだと思います。

表現なのですから、正解は表現者の数だけあって良いと思うのです。

 

ただし、流行りを追って画像を弄るのは表現とは違います。

画面が平坦になるほど、HDR(ハイダイナミックレンジ)と細度調整でカリカリにして、ゴテゴテした色味にしたいのなら、それは仕方ありませんが、本当はそうしたくないのにネット上で目立ちたいからと右へ倣えしてしまうのは表現とは言えません

 

自分の表現やスタイルを貫く。

これがRAW現像やレタッチをする上で大切なアイデンティティだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

LEICAに価値が見出せなくても別におかしな事はない

カメラ関係のブログを見ていると、この人はいったい年収幾らくらいで、カメラにどれだけお金を使っているのか?謎な人達がたまにいます。

 

羨ましい限りですが、ひとつのカメラを使い込むということもせず、次から次へと無い物強請りで物欲を満たすだけで、レビューとは名ばかり。買ってちょっと使った報告(自慢)だけで、直ぐ次の欲しい物に目移りしてしまってたり、目的意識がどこにあるのか解らない人がたまにいらっしゃいます。

恐らく、彼らの多くは「裕福だけど仕事や日常に忙殺されて、プチ買い物依存症になっている」のだと思います。


アルコール、ニコチン、ギャンブルなどと違い健全な趣味への投資なので、全く悪いことではありませんが、買ってブログに上げる事が目的になってしまっている感もあり、正直なところエントリー機を買って精力的に撮りに出掛けているような人のSNSの方が良い写真が多い気がします。

 

そんな買い換えしまくりユーザーが辿り着くのがLEICAだったりします。

 

 

 

ところで、皆さんLEICA価値ってわかりますか?見出せますか?

 

確かに、カメラが精密工作部品の結晶だった時代は、LEICAに追いつけ追い越せの風潮があり、値段相応の圧倒的な差がありました。

これは光学部品や精度の差だけでなく、ハンドメイドで作り込まれた節度感だったり操作フィーリングだったり。カメラが醸し出す、所有欲を満たしてくれる部分に投資する人がいるのも納得な出来栄えでした。

私もバブル時代、LEICA M3を所有していた時期があるので、これは否定しません。

ファインダーの像が一致するあの独特のフィーリングは官能的ですらありました。
発売から60年以上経ちながら、未だに語られるのが当時のライカです。

ですが、最近カメラを始めた方で、今のデジタルになったLEICAにその価値を見出せる人はいますか?

 

はっきりと例を挙げると、官能的なレンジファインダーも持たない、ただの電子ビューファインダーで、携行に不便なほど巨大なレンズが着いているのに、28mmの画角しか撮れない不便極まりないコンデジに75万円も払う価値が見出せるか?というと判りやすいかもしれません。

 

f:id:muramasachang:20200107184047j:image

LEICA Q2 公式ホームページより

 


LEICA信者は「LEICAはただのコンデジではない」と言うでしょうが、私はデジタルカメラ時代になってからLEICAで撮られた作例を見て

「嗚呼、これはLEICAじゃないと撮れないな」

などと思った事が一度もないです。

 

作例を挙げて記事やブログを書いてる人は自信満々

「見よ!このLEICAの醸し出す空気感を!」

的な事を喧伝されてるのですが、正直に言えば国産の安価なコンデジの宣伝に、作例としてプロが良い感じにライティングを駆使して撮って、ナチュラルレタッチされて載せられている写真と並べても「区別つかない」です。

 

はっきり言って、憧れのLEICAブランドを手にしたプラシーボだと思っています。

 


私は10代の頃から10年程ギターを弾く仕事をしていました。表にはでない裏方のセッションワークです。

日本のレコーディングスタジオは世界一高いので有名だったので、当時デビューしたロックバンドの多くは、アメリカなどに観光ビザで入国してアルバムのレコーディングをするのが一般的でした。


帰国したバンドのギタリスト達は口を揃えて
「向こうは電圧が高いから自分のアンプの鳴りが違った」

「空気が乾燥しているから鳴り違う」

と言うのですが、内心大笑いして聞いてました。

そもそもギターアンプには巨大なトランスが搭載されていて、回路内の電圧を一定に保つ設計がされています。

コンセント(アウトレット)からは安定した電圧で供給されている訳ではないので、それを確定電圧にしてから回路に送るのがトランス。アメリカであろうと日本であろうと同じアンプを運んでるなら音は同じで変わるわけがないのです。

寧ろ空輸とかでダメージを受けて真空管とかが出発前より劣化してる可能性の方が高いです。

湿度が完全にコントロールされているスタジオ内で、屋外の空気の乾燥なども全くもって無関係

 

国内ではバイトすら出来ず(当時は髪が長いだけで日雇いバイトすらなかった)ファンの女の子の貢ぎで生活していた貧乏バンドマンが、メジャーレーベルと契約して、初の海外で気分が高揚してただけの事で、インタビューなどで皆が口を揃えてそういうので、自分が同じ境遇になった時にプラシーボ効果でそう思い込んでいるだけです。

 

 

LEICAにも同じような構図が、あるのではないかと思うのです。

先人達が喧伝したブランド力もあって、「この良さが理解出来なきゃ通じゃない」的な脅迫観念に捉われて大幅上方補正されているのではないか?と。

 

デザインも安物のスキットルみたいですし、このボディが職人の手によるアルミの削り出しであろうと何のありがたみもありません。所詮はカメラの外箱の強度があれば良いのですから。

 

ホンダのF1エンジンが、外注を辞め、鋳造だったパーツが削り出しになったと言われたら、その真価は判ります。

市販品では考えられないほどの耐久性とミクロンの精度が求められるからです。

 

正直、法外とも言える値段でカメラを販売して、宣伝動画で「削り出しで手が込んでいる」と言われても、大した強度も必要がないパーツに、なんの意味があって削り出しという高コスト生産をしているのか意味不明です。

 

設計から細かなパーツのひとつひとつまで職人が手作りする独立時計師の業物が、数千万円しても大して驚きませんが、デジタルカメラなんて外注パーツを組み上げる部分の比重の方が高い筈です。

 

精密工作部品の結晶だった時のブランド価値と値段を上乗せするために、意味のない工程を増やして、過剰とも思えるクオリティを付加して値を吊り上げてるように思えてなりません。

イメージセンサは特注と言われてますが、実はフランス製の既製品という話も聞こえてきます。

 

使ってる方々が、我々手にする事が出来ない庶民にもわかりやすい「一目瞭然これぞLEICAって感じの圧倒的な写真を様々な媒体に載せてくれれば良いのですが、探し回ってもそのような写真に辿り着きません。

 

 

私がこのブログに、格安中華単焦点で撮った写真を多く載せるのは、プラシーボ効果のかからないようなレンズでフルサイズ とAPS-Cの違いを正確に判断したいし、こんな場末のブログであっても、たまたま目にした人の判断材料の役に少しでも立てればいいと思っているからです。

そもそも大三元などと呼ばれるレンズに興味がないのと、デジタル化されてお金のかかる趣味から庶民の楽しみになったカメラを、高額なレンズやカメラで語る事だけはしたくないからです。

 

 

 

LEICA最高!ってネットに書き込まれてる方々にお願いがあるのですが

「こりゃ庶民のカメラじゃ到底、敵わねーわ」

って思える写真をバンバン撮って、色々な所に出して下さい。宜しくお願いします。

 

庶民の私達には、宝くじでも当たらなければ、なかなか買えない贅沢品価格ですので、買える方々に教えて頂きたいのです。何故なら、今のままでは宝くじに当たっても絶対にLEICAのデジカメなんて買いたいと思わないないだろうな…という印象しかないので。

 

寧ろ、75万円もあったら岩合光昭さんの写真を観てオリンパス(マイクロフォーサーズ)のフラッグシップと贅沢レンズでも揃えてみようかな?と思ってます。

 

 

 

 

誤解のないように書いておきますが、別にSONYユーザーを敵視してるわけではありません

私のブログにはステマ大好き某企業」と、そのステマ大好き企業の回し者」という表現があります。まぁSONYの事を書いている事は明白ですので隠しませんが、敢えて付け加えるならSONYユーザーが嫌いな訳ではない」という事だけは誤解の無いよう明記しておこうと思います。

 

「道具としてならミラーレス(FUJIFILM)を使う」と、はっきり書いているように、ミラーレスが駄目だと切り捨ててもいません

私は光学ファインダーに慣れているので独眼レフに拘っているだけで、ミラーレスだって素晴らしい道具です。

 

ただ、ひとつのカメラを徹底的に使い込んだ事もなく、色々なメーカーのカメラを使い回した事もないような、低キャリアの人達が、声高にミラーレス優位を語る事が嫌いなだけです。

ミラーレスを買ってカメラ趣味を始めたような人が、一眼レフを使った事もないのに、ミラーレスを売るための宣伝文句を鵜呑みにして、優位性を語る。一体どういう心理状態なのでしょうか?甚だ疑問です。

 

ネットの無い時代には、読み齧りの文章を組み立てて、さも自説のように語るような人間は、最も低俗だと思われて馬鹿にされていましたよ。今ではそれが、当たり前になってしまった感があります。

 

自分の買ったモノが正しかったと言い聞かせる自己暗示の一環なのでしょうか?

やはりキャリアの低い人に有りがちな、初心者語って経験者ぶる事で悦に入っている、あの手の連中という事でしょうか?

 

その思考パターンが信じられないような人が沢山いることに驚きを禁じ得ないです。

 

比較の為の経験も無いのに、借り物の文章を組み立てて語りまくる。デザイン盗作や真贋無視の暴力、名誉毀損発言と並んで、ネット時代が創り出した闇だと思っています。

 

 

 

 

 

 

そしてSONYという会社についてです。

これは風評ではなく、テレビで自信満々に語られた内容と、お金を出して買った物に対する、私のユーザーとしての評価です。

 

私も以前は、SONY「世界に冠たる日本の誇るべき企業」と思っていました。当然、SONY製品も沢山持っていましたし、わざわざSONYだからと選んでいた時期もあります。

しかし残念なことに、これだけの大企業になりながら、その企業体質は長らくベンチャーのまま

バブル期のテレビ番組で「持ち主ではない人が、たまたま借りて聴いた時に、経年劣化していて『SONYは音が悪い』と思われないように、ウォークマンは2〜3年で壊れるように設計しています」などと、広報担当者がドヤ顔で喧伝していたあたりから私のSONYに対する疑心は深まりました。

ワイヤレスウォークマン2ヶ月経たずに普通の有線型ウォークマンになった事。そしてプレイステーションは初期型も2も放熱の悪さで半年保たず。とどめになったのは新発売当時のVAIOノート。2ヶ月経たずに動かなくなり、サポートセンターに持ち込むと「これ持ち歩いてますか?極力持ち歩かないで下さい」と平然と言ってのける始末で、あまりの無責任な売ってしまえばこっちのモノ主義に絶句しました。

持ち歩くからノートPCを買ってるんであって、持ち歩けないならわざわざ買うかよ!という時代です。

 

 

 

そして壊れるように設計ではなく、根本的な排熱処理の設計が未熟で、本来やるべき耐久テストも先行発売するためにおざなりに済ませている言い訳なのだと、私の中で結論付けました。

 

壊れた物はこれだけではありません。DAT(デジタルオーディオテープ)もラックマウントエフェクターも2年保たずに動かなくなりました。

特に音楽制作用のラックマウントエフェクターでは、山ほど持っていた物の中で壊れたのは、SONYとRockmanだけ。

RockmanはロックバンドのBostonのギタリスト、トム・ショルツが自分用に設計したアナログエフェクターを販売しただけの正にベンチャーなので、大手メーカーでは壊れたのSONY製だけです。

 

逆に20世紀に買ったSONY製品で壊れず10年近く使えたのは、stereo metal365という姉が買ったラジカセが唯一と言えます。

 

 

 

確かに今、我が家にあるSONY製品、投げ売られていた液晶テレビ12年使えているし、プレイステーション3もまだBlu-ray再生機として我が家では現役。ゲームもやろうと思えば出来ると思いますので、21世紀になってからのSONY製品はそれまでと比較して、壊れ難くなっていると思います。

 

 

しかし、SONY関連会社の度重なるステルスマーケティング騒動

そしてパーツメーカーとしてあるまじき、他社(Nikon)にも卸しているAPS-CサイズのCMOSイメージセンサネガティブキャンペーン

どちらも自社製とは言え、フルサイズを自社だけで使えていた時期に、フルサイズが如何に優秀でAPS-C駄目かのようなキャンペーンを店頭でポップまで立ててやるのは、あまりにも他社にパーツを卸して利益を得ているメーカーとしては礼儀に欠けます。

製品の耐久性は上がっても、やはりベンチャー的な戦略であるとしか思えない企業体質は、やはり好きにはなれない

 

ひとえに、販売する物に対する責任感の無さ。これは日本を支えた大手家電メーカーが昭和40年代までの対応のようでした。20世紀末になっても、後発のメーカーのSONYはそんな有り様だったのです。

「暮らしの手帳」に叩かれても、クレームを入れずに叩かれない製品を作ろうとした努力した企業と、叩かれないようステマで予め情報操作しようとする企業の差だと、私個人は思っています。

何事においても、楽な方を選ぶと必ずしわ寄せが来ますから。

 

 

別にSONYは私なんぞに好かれる必要はないのです。

ですが、日本を代表する企業のひとつになったのであれば、もっと正々堂々な販売競争をして他の企業の手本となって欲しいものです。

 

 

 

 

 

初心者はInstagram等のSNSで交流すると写真が上手くならない

SNSで趣味で繋がる事が簡単になって、写真は孤独な趣味ではなくなりました

反面、独りコツコツと試行錯誤する時間が減ってしまい、初心者の方には弊害と思えるような事も多いようです。

 

こんな例があります。プロフィールに初心者と記載してInstagramを始めたばかりの方にフォローされた事があります。

写真が3点、旅行に行かれた時に撮ったと思われる著名な寺院の写真を載せられていて、これからのその方の活動に期待しながらいいねをしておきました。

恐らく広角レンズは持っていなかったのでしょう。少ない機材ながらも頑張って自分の撮りたいアングルから撮ろうとしている努力が写真から窺い知ることが出来る、良い写真でした。

その時点で、その方にはフォロワーは殆どいなく、私がその方の36番目のフォローでした。

 

次に気づいた時は、相互フォローなどでその方はフォローもフォロワーも700人程になっていました。

神社仏閣の写真ではなく、御朱印を上から写しただけの写真と、食べた物の記録的なテーブルフォトばかりになって、最初の3点のような写真は皆無。

ですが相互フォローの無条件いいねと、いいねを貰ったお礼のいいね返しで、どんな写真であっても300から400のいいねが付くようになっていました。

 

テーブルフォトは歴とした写真の表現のジャンルです。

そして、食べ物写真が悪い訳でもありませんが、三脚も使わず、ライティングも考えず、本当にただテーブルに並んだこれから食する物を、自分の目線から撮っただけの写真は表現でも何でもなく、個人の食べた物の記録です。

 

でも、最初の渾身の3枚にはあまり貰えなかったいいね大量に貰えるので、その方はすっかり勘違いしてしまったようで、今も延々と、その日食べた物の記録とたまに御朱印の写真が載るだけのアカウントになってしまいました。

最初は、工夫して撮りたいものを撮ろうとしていただけに、とても勿体ないと感じています。

 

 

同じような例は多々見受けられます。目にピンが来ていない野鳥写真や、羽が消えてしまってる飛んでいる昆虫写真。ピン甘や、意図していないであろう水平が狂っている写真といった、本来は人前に出せないような写真であったとしても、相互フォロワーが多いと大量の無条件いいねが貰えるので、初心者や未経験の方は、それが「良い写真」「自分の写真は評価が高い」と勘違いしてしまっているのだと思うのです。

 

 

私もInstagramはやっていますが、フォローされても必ずしもフォローバックはしませんし、現実離れした色彩の画像を載せてる人も絶対にフォローはしません。

そして、フォローしている方の画像でも良いと思わなければいいねもしません。

いいねを頂いたら、その方の投稿された写真を見て、本当に良いと思う写真にだけいいねをしています。

いいねのし合いで、どんどん写真が雑になっていて、かなり過去の写真にいいねをする事の方が多いです。

 

いいねの機能は、その写真に対する評価でなくてはならないと思っています。相互フォローやいいねをくれたお礼で押してはならない。

そうでなくては、相手のためにならないと思っています。

 

フォローしてくれないならフォロー辞める、みたいな人も多いので、私はフォロワー少ないです。

なので、私の投稿はせいぜい20〜50いいねくらいにしかなりませんが、たまたま私の投稿を見かけた方の、正当な良いという評価が反映されたいいねなので、自分の中で判断材料になります。

この写真は好きだったけど、17いいねにしかならなかった。こっちはそこまでお気に入りではなかったけど50いいねになった…といった具合に。

 

 

 

最近のSNSには、吟味した写真を載せるのではなく、載せてレスポンスを貰う事が日課になってしまっているような人が沢山います。

目立つためにはパース画のようになるまでレタッチが当たり前になってしまっている人も沢山います。

なんの権威もない販促ステマ的なミクロな賞の受賞を堂々と列記したりも、ひと昔前は考えられませんでした。

 

動画の再生回数や、閲覧回数、いいねのために犯罪行為まで犯す馬鹿が沢山いる時代なので、これも時代の流れかもしれません。

 

ただ、個人的には写真は試行錯誤して自己満足で完結出来る人の方が遥かに上手くなるのではないかと思うのです。

 

 

 

 

f:id:muramasachang:20191231012301j:image
Nikon Df+YONGNUO YN50mm F1.8N(RAW現像)

たまに、朝一番の人影も無いファーストフードでこんな写真を撮って遊ぶ事があります。三脚を立てて紙コップの淵に追い込んでます。

つまらない被写体でも、練習にはなるものです。練習であれば、それなりの発見や確認も出来、次への反省にもなります。

 

ピアノでいえばツェルニーの練習曲はただ機械的なだけで、退屈でつまらないといった風潮があります。

 

でも、ピアノを始めたばかりの人には、つまらなくても退屈でも、カニカルトレーニングをするとしないでは大違いだと思うのです。

 

音楽、写真に関わらず、何事においても基本が最も大切です。

 

悩んだ時、行き詰まった時に、立ち帰る場所であり、支えになるのが基本です。

 

初心者の時から、ミラーレスカメラが撮らせてくれる画像をSNSに投稿しまくり、モノを知らない人達から高評価されてしまうというのは、この基本を疎かにしてしまっているのです。

自動的に、良い感じに補正してくれるカメラで「行った者勝ち」的な絶景ばかり撮っていては、写真は上手くなりません。


何か足りない…自分の撮る画像にそんな不満が出てきたような方は基本からおさらいしてみるのも悪くないと思います。


カメラに撮らせて貰っていたような方は、初心者向けのハウツー本でトライ&エラーをやってみるだけで、知らなかった事が沢山でてくると思います。

それが、銀塩時代から写真をやっている人達は当たり前のように染みついている基本だったりします。